昭和43年8月8日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月の初めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
この御教えほど、複雑な御教えはないと思いますですね。実に複雑、うー、な御教えですね。最後のところの、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうがと、みやすう信心をするがよいぞと、いう意味のみやすい。ね。かというと、込んだ、一番初めの、信心はみやすいものじゃが氏子からむつかしゅうすると、ここの、みやすいと、最後のみやすいは、違う感じですね。ですから、あの、えー、まあ、初心の人に対するところの信心ちゃ見やすいもんばいて。しょうと思えば、誰でも出来るばいと。というような意味合いで説く場合は、ね。まあ、そのひ、そげんあーた言いよるけれども、もう、その日その日が立って行きゃ良かろがと、今月今日で一心に頼んでいきなさいと。今月今日立って行きよら、それで良かろがと、いうように、最後のところは、まあ、頂きますですね。そういう意味でなら、なるほど、難しゅうない。神様は、その日その日の立ち行きのおかげを下さるんです、おすがりしておけば。ね。そこの、一番初めに、こう仰っておられる、信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうするというのです。ね。氏子が、信心ちゃ、むつかしかーと言わんやおれないほどの信心なのです、ここんところでは。ね。とても信心ちゃ、なかなか出来んのと。ほんとに信心もざっといかん。ね。と、言うほどしの信心が、みやすうなるところまでの信心を、ここでは、あー、同じ言葉で言い分けておられるように思うのですね。
そこで、今日、私はその、難しいほうの信心を、ね。みやすう、ね。えー、頂けるところまでの信心を、一つ聞いて頂きたいと、こう思うのです。ね。それは、なぜかというとね。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んでわが心をまつれと、ここんところをですね。迷わんですむ、どのような場合であっても迷わんですむ。しかも、喜んで、われとわが心がまつれる、ね。わが心がまつれれるようになるための信心なのです。ね。ですから、ここはやはり、私共が、一応難しいとこう思うのです。けども、我が心がまつれれるようにというところまで行くと、信心はもう、みやすい、みやすい、ね。だから、信心は有難いのと、信心は有難いものですよと、言うておる間は、まだほんなもんじゃない訳です。ね。その日その日が立ち行けばと、仰るような意味合いにおいての信心。そこに、当時のところに言うておられるところの、おー、信心というのは、ね。信心は難しいと。ね。そこを、五年十年と辛抱しぬかせて頂いて、われながら、自分の心がまつれれるようになるというところまでの信心。ね。そういう信心は、もう、そうですね、もう、信心ちゃ、有難かですねじゃなくて、それこそ、信心とは見やすいものであり、いや、見やすいだけではない、われと我が心がまつれれると言う事は、もう、嬉しゅうて、楽しゅうて、その上に、有難うてというようなものなのです。ね。そこんところを一つ、信心の稽古させて貰いたいと思うですね。
昨夜、私が、休ませて頂きましたのは、もう、一時半でした。んん、ちょっと、ある事がございましたから、夕べ、みんなが寝静まってしまってから、また、色々、お願いさせて頂いたりしておった。そうしましたらですね、そうですね、やっぱ、一間ぐらい長いものなんです。しかもそれは、大変重たさそうね、それを担いでるんです。ね。そして、急ごうと思うけれどもね、長くてね、それがその、重たいもんですから、急ごうと思うけれども急がれない。横を通っている人が、小さなものを持っておるから、小走りに、どんどんどんどん、その人を追い越して、その、走って行きよる、小走りのようにして歩いていきよるわけです。この人は、重たい、しかも長い、こう、持ちにくそうなものを担いでおりますから、急ごうと思うて、大股になろうとしますけれども、なかなか、急がれないでおる姿を、心眼に頂いてから、思うのですね。はー、なるほど、どうしておかげが受けられんのだろうこの人はと、思うておったけれども、これだけ重たいものを持っておりゃ、なるほど、そう、みやすうおかげは受けられまいと。そこで私は、思うたのは、四神様の御教えです、ねえ。めぐりが大きければ、おかげも、また大きいと仰る。ね。めぐりが深ければ、深いほど、信心も、深い信心が出来るようになるという事なんです。して見ると、これはね、人のおかげ頂きござるとを、羨ましいぐらい思うちゃならん。それこそもう、実意丁寧に信心させていただいて、そして、そう大した、おかげの上に表れていなくても、その人の信心内容が、段々、出来ていきよるなら、そういう信心こそ有難いものである、そういう信心こそ、羨ましいと、例えば、手っ取り早よう、おかげ受けていく人達は、思わにゃいけないくらい。めぐりの程度が違う。ね。めぐりというと、みんなが嫌なような顔をするけどね。めぐりこそ、私共に力を与えてくれる。めぐりこそ、私共のに、徳を与えてくれるものなんです。ね。その、おー、力こそ、徳こそが、あの世にも持っていけ、この世にも残して置けるというものですから、有難いです。まあ、まあ、合楽に御神縁を頂いておる人達は、まずまず、私はめぐりの、大きい人たちばっかりだと思うです。なぜって、やっぱり、類は類を持って集まるというからね。私自身がめぐりが多い。ね。めぐりが大きかったから、私は、誰よりも、いわば、おかげ受けてきたと自分で思うんです。その代わり、誰よりも、まあ、人が人偏なら、私は行人偏というようなですね。ね。一つ、ね。人偏と行人偏はよう似とるようだけども、いっちょ違う。修行が違うとった。ね。その、行人偏の時代にです、私は、考えてみると、みやすうその、行人偏のところを通らせて頂いておったように思う。それこそ、嬉しゅう、楽しゅう、しかも、有難う通らせて頂いておったように思う。その、長う、重たいものを担いておるときこそ、徳を、そう、人よりか、ね。人が一里の道を一時間で行くところは、それこそ、五時間も、六時間もかかって、這うようにして、やっとそこまで到着する、到着したころには、もう、それこそ、もう自分でも、どっからこういう力が出るであろうかと思うような力を受けておるし、ね。信心が楽しいものになっておる、本気で、稽古の、この構えが違う。
信心が、この、信心は見やすいものじゃがというところを、例えばですよ、その、69節の一つ前の68節の一部を頂いてもですね。なるほど、信心は見やすいものじゃないと、見やすいものじゃないと、ね。最後のところで、その日その日が立ち行けばというようなのは見やすいけれども、ね。信心、いわゆる、信ずる心。ね。神様を信じて疑わない、というところまでの、信心を高めていく信心は、やはり、氏子が難しい、難しいというように、私共も、難しいと思うように、やはり、見やすいものじゃないけれどもです、そこんところを、本気で信心させてもらえば、そこから楽しゅうなってくる。ね。神参りをするに、雨が降るから、風が吹くから、えらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃでしょうが。ですから、やはり、雨やら、風やら吹くときに、しろしくないという者はなかです。難しいです。はあー、こげな雨ん降りでん参らにゃんなら、信心なとても出来ん。と信心のないものは言うでしょう。ところがその、信心させて、いよいよ、有難くなっていきよるものをです、その、雨だからこそ、風だからこそ、楽しいのですよ。ね。ね。雨が降るから、風が吹くから、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ、と言うてです。あの、椛目の時代に、そういう稽古があったんですよね。普通は、参ってこんでん、今日、雨ん降りよるけん、風ん吹きよるけんで、今日は参って一徳受けようというわけなんです。ね。これはちょっと間違いです。ね。雨が降りよる日だけ参ろう、徳受けるという意味じゃない。いつもお参りをさせて頂いておる、その上、今日は雨だからもう、御無礼しようかというような時でも、さあ、その辛抱こそが、身を、徳を受ける修行だと思う、ね。時々どん参ってから、その、力が受けられる徳が受けられるとは思われない。ね。信心が、段々、いよいよ有難い、それこそ、嬉しゅう、楽しゅうなってくるから、そうし、雨風の中でも辛抱していけるのでございます。ね。そこでです、その、辛抱しぬかせて頂いておる、いわば、重いものを担がせて頂いておる間にですね、どういうような事を、焦点にして、目指しにしてですね、お互いが、いわば、信心を見やすいものにするか、われながら、自分で自分の心を拝めれるようになる、一つの焦点といったようなものが、なからなければならんと思うのですよね。ただ、おかげだけが、いつも焦点という人はつまらん。ね。そこまでは、皆さん分かったですね。見やすいと言う事にもです。二通りの見やすいがあるね。この、69節の中からだけでも、初めに仰っておられる、みやすうというのは、実を言うたら、みやすうはない。けども、本気で、そこんところを、めぐりの深い自覚が自分でに出来て来るようになるとです、ね。日一日と、すっとこう、めぐりが軽るうなって行く自分が、力がついて行く自分が楽しゅうなってくる。ね。その日その日が立ち行けば楽じゃと、みやすう信心をするがよいぞと仰るのは、ね。どんなに難しい、難儀な問題があってもです。お取次ぎを頂いていけば、日々、ちゃーんと、ね。道は開けていくのである。ね。そういうみやすう。そこで、今日私が、我と我が心が、三年五年では迷いやすい、十年と信心が続いたらと言われるほどしの信心。われながら自分の心が拝めるほどしの信心。そこになってくるときに、信心は、いよいよ、見やすいものになってくると、言うところを今日は、皆さんに聞いて頂いておるわけです。ね。そして、そんなら、そういう信心を目指さしてもらうその、信心がですね、そんなら、そういう信心を、おー、お互いが求めての信心させて頂いておるなら、どういうところを、本当に求めての信心になったら良いかと。私は、昨日、ちょっと、この、金光青年の、この雑誌が、えー、送ってきておる。昨日、ちょっと、ちょっと開いてみたところに、もう、ほんとに同感と、私も、おー、言い、また、思わせて頂きよるようなところが、後先は読んでおりませんけれど、書いてあった。だから、ここんところをです。合楽に通わせて頂いておる、いわば、合楽の信奉者のみんなの御信者さんがです、ここんところは、一つ、身に付けていただいて、ここんところは、一つひとつ自分のものにして頂きたい。そこから、信心がみやすうなる。そこから、信心が、いよいよ、嬉しい、楽しいものになってくる。というのでございますから、皆さん、よく、うー、頂いて帰って欲しい。皆さんの中には、もう、これが、一つひとつ、まあ、出来て行っておられる方も沢山あろうと、こう思う、ね。ですから、どの一か条でも、これは、あー、ぬか、あー、これは要らないという事はない。みんなが、やっぱ、出来なければ、信心は見やすいものにはならん。我が心がまつれるようにはならん。ね。実に楽しい事ですから。いいですか、読みますよ。一つ、朝、四時の起床が楽になるまで。ね。初めの間は、なかなかどうして、朝起きができませんもん。ね。けど、段々通わせていただきよるうちにもう、朝の四時の起床がですね、もう、ありがーとなる。目覚ましが、有難うなる。ゆうべ、どげん遅かったっちゃ、パチッと、もう四時になりゃ目が覚める、というところまで、辛抱が要るです。ですからとても、めぐりのね、めぐりの少ない人なんかで出来るはずがなか。ね。やはりここに、苦労というものがあるからこそ、ね。それこそ、眠い目を、こう引っ張るようにしてからでも起きて参ってくるわけですよ。それが段々楽に出来るようになるんです。ね。これは、椛目には、大分、ま、椛目から合楽にかけてですね、おられると思うですね。あー、こら、何時までこげん朝参りば続けんならんじゃろかという間は、先ず、だから、ほんなもんじゃないという事なんです。ね。これが、一つ、それから次にが、一つ、朝夕の御祈念が、わが命になるまで。朝夕の御祈念がね、これは、朝の御祈念、夕の御祈念に参って来るというこっじゃないですよ、ね。自分ところで、ご神前で、いわば、御祈念をさして貰う、その御祈念が、ね。もう、ほんとに、自分の命というほどに、有難いもの、欠かせないものになるまで。もう、今日は忙しかったけん、御無礼する、ぽんぽんと拍手打って休むようなこっじゃ、まあだ、ほんなもんじゃないと言う事。ね。して見るとその、御祈念中に眠るなんていう間は、まあだ、駄目だと言う事。ね。もう、神様と、交流しておる三十分であり、また一時間なのだ。ね。そういう意味で御祈念の稽古をしっかりせにゃいかん。ね。朝夕の御祈念が自分の命になるまで。
次にね、人の幸福が祈れるようになるまで。人の幸福が、いよいよ、祈れれる自分になる。人の幸福が祈れるようになるまで。初めの間は、もう、自分のこつばっかり、人んこつだんじゃない、そりゃそれが当たり前。ね。けれども、段々ゆとりが出来てくる。力が余ってくる。ね。ですから、そこに、神心が自ずと出来てくる、人の事でも祈らなければおられない。袖すりあうも多少の縁、という縁を通して祈ってくる。ね。信者さん、友達の方たちが、例えば、病気をした、怪我をしたといや、皆さんが、その事をお取次ぎを頂いて、わざわざ、お取次ぎを頂いてから祈られるでしょう。ね。そう言う事がですね。もうほんとに、ここの辺になってくると信心は楽しいのです、ね。人の幸福が祈れれる、初めの間は、人が幸福になると、腹の立ちよった。それが、普通の人間。ね。隣に蔵が建つと、こっちは、腹どん立てよる。というような信心の間では、まだまだ、ね。我が心がまつれるようにはならん。信心が見やすいものにはならん。ね。本当に、人の幸福が心から祈れれる。ね。
次にはね。嫌いなものが好きになるまで。嫌いなものが好きになるまで。例えば、私はこれを、いつも自分で思うんですけれども、私も、非常に好き嫌いが激しかった。例えて言うなら、この、色ですね。まあ、いろいろな、赤とか青とかといろいろな色があります。もう、その中に私はね、もうあの、ねずみ色ですねえ。それはあの、カーキ色ですね、レンガ色。もう、ふるふる好かんじゃったです、私は。それから、青色も、あんまり好きじゃなかった。ところがですね、カーキ色が今、合楽の色とまで言われるくらいに私が好きになった事ですよ。これは、自分でも、病気にはおよばんにおりますよ。もう、カーキ色んごつ、下作か色はなかと自分では思うておったです。ところがその、カーキ色が合楽の色として、選ばれるくらいに好きになった。だから、他んとはもう、押して知るべしです。ね。赤とか、紫とか、私が好きな色でした。ところが、その好きでたまらんというものが、さほどにも好きでは無くなって来た。と言うて嫌いじゃない。ね。そして、今まではもう、ほんとに嫌いであった、カーキ色が好きな色になったとですね、合楽の色といわれるくらいに、だから、ご本を作りますと、ね。ご本を作ると必ず表紙がカーキ色でしょうが。先日、あの、御理解集をずーっと、あの、末永さんが、あのー、書きよりますもん。それはあの、おー、表紙を貼ってきておるとが、こげな色で貼ってきておる。あーもー、どげなこっでんするなと私が言うた。こげな色で貼って、それでんやっぱり貼っとるばってん、いや、先生がお好きな色じゃからというわけなんです。と、わざわざ、こういうふうにして皆さん心を使われるくらいに、私がカーキ色ば好きになったつです。ね。信心ちゃ不思議なもんですよ。だからもう、あん奴ばっかりは、顔も見るとも嫌というごたる間は、まあだ、駄目なんです。ね。もう、それこそ、好かんもんどころかですね、もうほんとに怖いというよな物でも、怖くなくなるまでという事なんです。私の一番嫌いなものは、私はもう、ほんとに、この世の中で一番嫌いなものは、あの、がまが一番嫌いです。もう私は、ありば見るともう、ひっくり返るぐらい怖いです、ほんとに。もう、道を歩きよってからですね、もう、あれが出てきとるなら、もう私はほんなこて、くぇーっと自分でひっくり返りよるぐらいにもびっくりするです。ね。ところがですたい、この頃、私は、ありばじーっと見よると、こんなかなか、こぇらしかねと思うようになりました。(はっは)そんくらいやっぱ、稽古しよります。もう、見つけたならば、じーっと眺めとる。で、この頃あーた私は、ちょいと水を撒こうと思うてから、あの、水道のですね、あの、こう蓋のあるでしょうが、こんくらいばっかりの、中にこう入れる、あそこにこう、あの、ホースばこうやって曲げてほりこんどる訳ですよ。で、私は、そりば引っ張り出しよったらですね、その中に、はいっとった、もう私はもう、やっぱ、とっさに出てくるとやっぱ、いかんですね。けども、あそこにはあれがおると、こう思うとると、ちゃんと度胸すえとるでしょうが、こうやって見よる、ほんと目元やら、口元やら可愛らしいですよね。けども、とっさに出てこられるとやっぱりびっくりする。もうそりゃ私は、どげんして廊下に飛び上がったつやら分るやろ。(一同笑い)まあだ、こら、ほんなもんじゃないですよね私は。けれども、おかげ頂いて、食べ物でもです、ね。人でもです、もう、こげなもんな好かん。こげなつは食べようごつなか。もうあげな奴は顔見っでん嫌というのが段々無くなってまいりました。もうこれは本当に有難い。それは私が色の上にでもおかげを頂いておる。もうこれが印です。ね。信心させて頂きよると、段々そげんなるです。それを願っとかんでんですね。そこが大事ですよ。ね。嫌いなものが好きになるまで。ここがもう、一番合楽的なとこです。まあいっちょありますよ。ね。
神様の顔色が分るようになるまで。ね。神様の顔色が分るようになるまで。そこんにきはもう、言わず語らすの中に合楽の方たちは、大体身に付けていきよるですね。合楽で、十年も信心の稽古をした人ならばです、わかる。ね。神様が、ボーっとしてござるとか、ニコニコしてしてござるかろという訳じゃないけれどもね。何とはなしに、今日は神様がご機嫌だなあと言う事が分る。ね。北野の秋山さんが、ようそんな事を言われよりました。御祈念をしよってからですね、笑い出す事がある。くすくす笑い出す、神様が笑いござる。自分も一緒に共笑いしよる。ね。なぜか分らんけれども涙が流れる、悲しい。神様が悲しんでござる、もらい泣きしておる。これはね、もう、いつの間にかそういうのが出来てくるですよ。ね。同時にこれは、形の上なんかででも、段々分ってくるようになる。
あの、福岡の初代は、月次祭なんかの時ですね、始まるとね、お参りが少ないと、また、今日は、あー、神様のご機嫌が悪いぞ、はよう御神酒ば買うて来いと言うて、お神酒を買いにやりよんなさったそうです。ね。そして、神様の機嫌をとっといてから、お祭りを始めるというような、あの在り方でおありになったと言う事です。皆さん、どうですか、分りよるですか、分る。神様のご機嫌が良い悪いぐらいの事が分るようにならなければですね、駄目ですよ。ね。段々おかげを頂いてから、先生の機嫌のええ時と悪か時は分るごたる風ですもんね。もう昨日、お届けしようと思うたら、先生がなんかこう機嫌の悪そうにされたからもう、あっは、もう言いきらずに帰ったち。そげん時なら、必ずしかし、おかげを受けとる。もう、明日お届けせんでよかごつおかげを頂いておる。ね。だから、先ず、やはり、先生の心が読めるようにならにゃいかん。ね。先生という事は、お取次ぎをしてくださる、いわゆる、金光大神の顔色が先ず分るようにならにゃいかん。どうでしょうか、今私が、あー、その箇条書きに書いてある、それを皆さんに聞いてもらいました。一、二、三、四、五、六、ね。六か条。私はこれを読ませていただいてから、もう、確かにそうだと思います。こういうようなものが自分のものになってくる時です。いよいよ、信心は見やすいもの、いや、見やすいものだけではなくて、ね。それこそ、嬉しい、楽しいもの。それこそ、三年五年、それが、誰がなんと言うて水をさそうとも、迷う段の事じゃない。いよいよ有難うなってきて、ね。喜んで我が心がまつれれるようになるようなおかげを受けられるのです。ね。ですから、ここんところをです、私は目指させていただく。これは、どうか一つもう、塗板にでも書いていただいて、合楽全部の人が、はー、これのうちの、これとこれは自分のものになっておる、ここんところはまあだ、精進の目当てにしなければならんというようにです。して、私は、まあ、ある意味合いにおいて、合楽の信心をマスターするというならばです、ね。ここんところが、自分のものにならせて頂かなければ、信心は見やすいものとは言えないと私は思うのでございます。ただし、最後のところの、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうがと。みやすう信心をするが良いぞと仰るのは、皆さん、もう、今でも見やすいわけなんです、ね。もう明日の事は、思い煩う事がいろうか、今日一日が立ち入ったんだ。明日は明日の風が吹こう、そう思うたら見やすいのです。ね。そこを、たえまず精進させていただいて、その日その日のお取次ぎを頂いておかげを受けていこうというのであります。ね。それから、同時にまた、今、私が申します、ね。いや、難しいほうの見やすい点。ね。それには、只今、私が申しましたような内容を持ってこないとです。信心が見やすいものになって来ないのです。ね。どうぞ一つ、そういう信心を目指して信心していただきたい。
えー、今日から、私はあの、御本部参拝のおかげを頂きます。えー、十日の月次祭が、私が、あー、九日と今度は十日に私共御信者さん方の御用があるわけなんです。ですから、何時もよりも一日、いー、多くあちらに滞在しなければならんわけです。ね。本当に、御本部参拝と、が出来ると思うただけでもです、ね。とにかくもう、本当に、胸がどきどきしてくる。御本部参拝がレクレーションのごつ思うとるわけじゃないです。ね。第一、金光様にお目にかかられると言う事。ね。次にはあの、奥城にお参りが出来ると、奥城の前の、石畳の前に座るときも、ひと時のことを思うただけでも、胸がどきどきする。私は、御本部行ったら、もう慌てまわって、だからいかん。お広前に、ずーっと自分の心を修めといてから、そして、奥城にでもお広前にでも、あー、もうてんでもう、着いた途端に、お広前に、奥城に、あげなこっで行くもんですか、あ、せききっていってから、ね。椛目の汚れぐらい落としといてから行かにゃ、ね。そしてその、はやる心をじっと抑えといて行くぐらいな気持ちがいる。段々、御本部参拝にゃですね、いわば、皆さん、嬉しゅう、楽しゅうならせて頂いたら、あー、親先生が御本部参拝されるのは、何をおいてでもです、お供が出来きるぐらいなおかげは頂かなければ、今日のご理解の中のその、箇条書きの中には、なかけれどですね、御本部参拝は、とにかく、嬉しゅう楽しゅうならなければ駄目です。私共の心の故郷ですもの。ほら、御本部参拝げな、と言うてお初穂も託とらんごたるこっで、おかげのいただけるはずがないじゃないですか。昨日、久富先生が、今度はもう、お初穂が集まっとらんち言う、どういうこっじゃろか。発表してあるとですか、発表しとる。と言うてですね、いわっしゃるから、こげな事じゃあ、まあだ、皆さんの信心がです、ね。見やすいものにはなってこんですよね。どうぞ。
中村良一
2005年4月24日